Text Size : A A A
Img_a35263ad47fb4f7778af334b1f40b510


先日の日曜日に宮崎駿監督の風立ちぬをレイトショーで見て来ました。

率直な感想を言えば、物足りなさを感じました。映画の冒頭、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの「風立ちぬ、いざ生きめやも」という一説が引用されたスーパーインポーズから始まります。この映画の柱は「ゼロ戦開発物語」(堀越二郎の半生)と、大昔の典型的な、病気で亡くなるヒロインとの悲恋もの(いわゆるサナトリウム文学・堀辰雄の「風立ちぬ」)を融合させた映画という事になります。現実のゼロ戦設計者・堀越二郎の半生を描いた縦軸(ノンフィクション)の部分と主人公が結核の少女と出会う恋愛小説(堀辰雄(ほりたつお)の小説「風立ちぬ」)としての横軸(基本的にフィクション)の部分が、ミックスされた映画です。
それと3本目の柱、「風立ちぬ」に繰り返し登場する主人公堀越二郎とジャン・カプローニ伯爵との夢の世界です。

カプローニ伯爵「飛行機は戦争や経済の道具ではない。それ自体が美しい夢なのだ」

堀越二郎「美しさと機能は両立できる」

多分、ここに宮崎駿監督が描きたかった本質が隠されている気がします。雑誌「Cut」2011年9月号の「宮崎駿3万字インタビュー」で

宮崎駿「関東大震災のAパートのラフコンテを切り終わった時に、震災が起こって。」

「戦争の道具を作った人間の映画を作るんですけど、スタッフにも女房にも『なんでそんな映画を作るんだ?』って言われて。」

「その男はその時の日本の、もっとも才能のあった男なんです。でも、ものすごく挫折した人間なんです。物造りを全うできなかったから、敗戦の中でね、ずたずたになっていったんですよ。でも僕は彼が『美しいものを作りたかった』ということをポツっと洩らしたということを聞いてね、「これだ!」 と思ったんです。」

映画の時代背景は、1916年(大正5年)から1945年(昭和20年)までが描かれています。澄み切った空とどことなくのどかな街並。その風景に反するように戦争へ向かう重く暗い息の詰まる時代。そんな時代でも活き活きと生きる人々。宮崎駿監督の この映画の企画書にこんな事が書かれています。

企画書
飛行機は美しい夢

ゼロ戦の設計者堀越二郎とイタリアの先輩ジャンニ・カプローニとの同じ志を持つ者の時空を越えた友情。
いくたびもの挫折をこえて少年の日の夢にむかい力を尽くすふたり。
大正時代、田舎に育ったひとりの少年が飛行機の設計者になろうと決意する。
美しい風のような飛行機を造りたいと夢見る。

やがて少年は東京の大学に進み、大軍需産業のエリート技師となって才能を開花させ、ついに航空史にのこる美しい機体を造りあげるに至る。三菱A6M1、後の海軍零式艦上戦闘機いわゆるゼロ戦である。1940年から三年間、ゼロ戦は世界に傑出した戦闘機で会った。

少年期から青年期へ、私達の主人公が生きた時代は今日の日本にただよう閉塞感のもっと激しい時代だった。関東大震災、失業、貧困と結核、革命とファシズム、言論弾圧と戦争に次ぐ戦争、一方大衆文化が開花し、モダニズムとニヒリズム、享楽主義が横行した。詩人は旅に病み死んでいく時代だった。

私達の主人公が飛行機設計にたずさわった時代は、日本帝国が破滅にむかってつき進み、ついに崩壊する過程であった。しかし、この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。

自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気もはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憧れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少なくない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能において最も抜きんでていた人間である。それを描こうというのである。

この作品の題名「風立ちぬ」は堀辰雄の同名小説に由来する。ポール・ヴァレリーの詩の一節を堀辰雄は、”風立ちぬ、いざ生きめやも”と訳した。この映画は実在した堀越二郎と同時代に生きた堀辰雄をごちゃまぜにして、ひとりの主人公”二郎”に仕立てている。後に神話と化したゼロ戦の誕生をたて糸に、青年技師二郎と美しい薄幸の少女菜穂子との出会いと別れを横糸に、カプローニおじさんが時空を越えた彩りをそえて、完全なフィクションとして1930年の青春を描く、異色の作品である。


映像についての覚書

大正から昭和前期にかけて、みどりの多い日本の風土を最大限美しく描きたい。空はまだ濁らずに白雲生じ、水は澄み、田園にはゴミひとつ落ちていなかった。一方、町はまずしかった。建築物についてセピアにくすませたくない、モダニズムの東アジア的色彩の反乱をあえてする。道はでこぼこ、看板は無秩序に立ちならび、木の電柱が乱立している。

少年期から青年期、そして中年期へと一種評伝としてのフィルムを作らなければならないが、設計者の日常は地味そのものであろう。観客の混乱を最小限に留めつつ、大胆な時間のカットはやむを得ない。三つのタイプの映像がおりなす映画になると思う。
日常生活は、地味な描写の積みかさねになる。
夢の中は、もっとも自由な空間であり、官能的になる。時刻も天候もゆらぎ、大地は波立ち、飛行する物体はゆったりと浮遊する。カプローニと二郎の狂的な変質をあらわすだろう。

技術的な解説や会議のカリカチュア化。航空技術のうんちくは描きたくはないが、やむを得ないときはおもいっきり漫画にする。この種の映画に会議のシーンが多いのは日本映画の宿痾である。個人の運命が会議によって決められるのだ。この作品に会議のシーンはない。やむを得ない時はおもいきってマンガにする。セリフなども省略する。描かねばならないのは個人である。

リアルに
幻想的に
時にマンガに
全体には美しい映画をつくろうと思う

2011.1.10 宮崎駿

この企画書に宮崎駿監督の描きたかったパズルのピースが見えてきます。もっと深読みすると大正から昭和初期の時代の空気感が今の日本と妙に共通するところがあります。そこに宮崎駿監督の問いかけもあるのではないかと想像してしまいます。さて、3本の柱で構成されたストーリー、主人公ゼロ戦設計者・堀越二郎の柱(飛行機は美しい夢)・里見菜穂子と堀越二郎との恋愛部分・その縦軸と横軸の柱のクッションとして堀越二郎とジャン・カプローニ伯爵との夢の世界があります。この整合性がなんとなく中途半端に感じてしまいました。あちらを立てれば、こちらが立たず的な感じでしょうか・・・。その破綻を避けるために夢の世界に逃げ込むという構造に物足りなさを感じていたのかもしれません。ナウシカで見られた人と自然との輪廻転生・再生・事象作用に流れる哲学。今回、そういうものが稀薄に感じてしまいました。
宮崎駿監督が語っている『飛行機は美しい夢』が時代背景によっては、人殺しの道具になってしまう危うさ・脆さなど相反する矛盾から導かれる人の生き様などをもっと描いて欲しかったなあと思います。キャッチコピーにある『生きねば』に集約されていますが、自己矛盾を抱えながらも、愛する人を亡くしても人は淡々と生きていく・・・・その言葉に行き着くまでの過程をもっと見たかった気がします。


風は、変化をもたらす

この映画は、物語の展開のきっかけに風が吹きます。二郎と菜穂子の最初の出会いは、列車の外デッキで隣り合わせた際に橋にさしかかったせいで突風が吹き、飛ばされた二郎の帽子を菜穂子がキャッチした事がきっかけでした。そのあとすぐに関東大震災が起こり、二郎は菜穂子たちを助ける事になります。そして二度目の出会いは、軽井沢で静養していた菜穂子が絵を描いていましたが、ふいに風に飛ばされたパラソルを二郎がつかまえた事がきっかけでした。田園を駆け抜ける風の描写が実に素晴らしいのです。まるで第三のキャラクターのように活き活きと描かれています。関東大震災のまるで大地が動き出すかのような描写も必見です。

今回、宮崎駿監督はSE(サウンドエフェクト)を実験的にすべて人声で行っています。これが関東大震災のシーンでは効果的でした。余震での大地の怒りのようなSEの呻き声は、鳥肌がたちました。人声でのSEは効果的で違和感なく聞けました。逆に飛行機や大震災など自ら意思を持ったようにまで感じられました。

今回ブーイングの嵐になっている主人公堀越二郎の声のエヴァンゲリオンの監督・庵野秀明氏のキャスティングです。はっきり言ってヘタです。棒読みです。感情がこもっていません。なぜにプロの声優さんを使わずに愛弟子である庵野秀明氏を起用したかは謎ですが、過去にコピーライターの糸井重里さんを起用したりと宮崎駿監督は素人を使う傾向があります。もちろんリスクを承知でキャスティングしている訳なので、堀越二郎の何を考えているかわからないような飛行機設計家のキャラクター性や感情をあまり表に出さない人物像を考えて、『あっこれは庵野だ。』と宮崎駿監督が考えたのかもしれません。プロの声優さんにはないリアリティを求めたのかもしれません。しかし脇を固める堀越二郎の上司黒川役の西村雅彦さんや黒川夫人の大竹しのぶさんは凄い!キャラクター以上の味と深みを出しています。私事で恐縮なのですが、とあるCMで2回ほど西村雅彦さんを演出したことがあります。この西村雅彦さん、演出する側の意図を瞬時に理解して想像以上の演技をしてくれる俳優さんです。またカプローニ伯爵の狂言師 野村萬斎氏も独特の言い回しで強い個性を発揮していました。
そして里見菜穂子役の瀧本美織さんは、少女時代の菜穂子と堀越二郎との恋愛を経て結婚するまでを声のトーンを少し変えて演じています。ナウシカ系統の女性の声だなと思いました。宮崎駿監督は、女性を一種独特な聖女的な描き方をします。今回の里見菜穂子もそういうキャラクター付けがされています。

是非、見てくれとは言いませんが 人にこれだけ長文のレビューを書きたくなる映画ではあります。「風立ちぬ いざ生きめやも(風が吹いた。私達は生きねばならない)」なんという美しい言葉でしょうか・・・・。ウインド撮影の肌感覚で風立ちぬの感触がわかる気がします。

検見川ヒロ


そして、誰も押さなくなった・・・・・・・
にほんブログ村 マリンスポーツブログへ
にほんブログ村
Img_e66a687bd52f3aa0440b435c273bac89
連休中は風邪で寝込んでいたのですが、只寝込むのも癪だなと思い38.2℃も熱があったのですが本を読みながら寝込むかと・・・ブックストアに行き村上春樹の最新刊を購入してきました。村上作品は数十年ぶりかな・・・・・。ノルウェイの森以来かもしれません。しかし、これがいけなかった!

オシャレな村上節を堪能したのですが、20代や30代の頃とは見方が変化したのか、おっさんになるとページをめくるたびに『うん・・・・?』『ありえんだろ!』『そこでそんなコト言う?』と突っ込みながら読み進めていました。風邪が長引いたのは、村上春樹のせいかもしれません。笑)元々村上作品は、『空気感小説』とか『言葉酔い小説』『生活臭ナッシング小説』だと思っています。読み終えて、ハテ?これは何?おっさんになって感性が劣化したのかと思い、この村上作品の書評をいろいろ読んでみました。するとアマゾンの書評で居るんですよね、同じように感じた人が・・・・・。ドリーさんという方の書評が、あまりにも秀逸なのでコピペしました。なんだか本篇より面白い(笑)

孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説  byドリー

満を持して、村上春樹を読んでみました。めちゃ売れてるって評判だし、本屋でも下品なぐらい平積みされてるし、アイフォーンの新作かってぐらいの長蛇の列がテレビで流れていたので、あんまりウザイから読んでみたのです。
 読んでみてすぐに王様のブランチで本仮屋ユイカとかが「うーん・・・なんか難しいとこもあったんですけど・・・最後にすごい村上さんから明るい励ましのメッセージをもらったようで元気になりました!」ってぶりっ子然な感じでなんの生産性もないコメントをしているのがなんとなく目に浮かび・・・。その脇で谷原章介が「うんうんそこが村上作品の魅力だよねー」とスカした感じで頷いてる光景が脳裏によぎりました・・・。王様のブランチで褒められている小説はたいがいろくでもないという相場は決まっております。だから変な期待を持たずに読み終えることができました。あらかじめ言っておくと、ボクは村上作品のいい読者ではありません。ノルウェイの森も途中やめにしてるし、アウターダークも途中退場、まともに読んでるのは象の消滅っていう短編集と風の歌を聞けぐらいで、1973年のピンボールなんか朝おきたらベッドの中にかわいい双子のおんな子がいたー!って時点で床に叩きつけています。言わずもがなカートヴォネガットとかレイモンドカーヴゃーもフィッツジェラルドも読んでいないし、ちょっと周りがもてはやしているから読んでみよう。でもいまいち良さがワカランなぁぐらいのレベルなのです・・・。しかし「風の歌を聴け」をはじめて読んだときは衝撃をうけました。その主人公のあまりのオシャンティーぶりに全身から血の気が引きそうになったのを覚えております。だって・・・あれだぜ・・・。ジャズバーにいたら自然と女が寄ってきて、そんで全然そんな気ないのに、ちょっと会話してたらもう部屋に連れ込めてるんだぜ? そんでワインのコルクを果物ナイフの先っぽでこじあけようとしてんだぜ? 果物ナイフでだぜ!? 「ビーフシチューは好き?」とか女に聞きながらだぜ・・・。コルク抜きとかつかわないんだぜ・・・。なんか石田純一が女の前でりんごを果物ナイフで切ってそのままナイフにのせて食べるって言ってたのと同じレベルの、スカシっぷり・・・じゃね?ジャズのレコードがかかってるムーディな部屋でだぜ・・・。しかもそのムードのまま、しっぽり、やれちゃうんだぜ。しかもやってる最中に、「あなたのポコチンはレーゾンディートルね」とか言われちゃうんだぜ? なにそれ? レーゾンディートルってなにw? クソ意味不明なんですけどw ググる気にもなんないんだけど・・・。仮性包茎のこと? 
 ここでノックアウトされるものはハルキニストになり、ここで「ちっ」と舌打ちするものはアンチ村上に転ずる、と言われております。ボクは、舌打ちするほうだったのでアンチとは言わないまでも、そんなオシャンティーな村上作品に対し、どことなく嫌悪感を抱いておりました。齋藤孝氏が「これは僕のなめた孤独とは違う」と言っておったのが、大多数のアンチ村上の意見なのではないのでしょうか。
 さて、じゃあ本作は主人公、多崎つくるくんはどうかというと、これもまた案の定、孤独です。まず冒頭二ページでこんなんです。

 ―――用事のない限り誰とも口をきかず、一人暮らしの部屋に戻ると床に座り、壁にもたれて死について、あるいは生の欠落について思いを巡らせた。彼の前には暗い淵が大きな口を開け、地球の芯にまでまっすぐ通じていた。そこに見えるのは堅い雲となって渦巻く虚無であり、聞こえるのは鼓膜を圧迫する深い沈黙だった―――
 
 ぼっちです。これは共感がもてます。大学生なので深刻です。これは辛い自体です。しかし、いちいち言い方がおおげさなのが玉にキズです。暗い淵が地球の芯にまでって・・・いくらなんでも深すぎです・・・。しかも「渦巻く虚無」とか「深い沈黙」とか「生の欠落」とかいちいち出てくる単語が思春期こじらせた中学生が書いたブログに出てくる言いまわしみたいでイカ臭いです。「深い沈黙」が聞こえる・・・ってのも意味がわかりません。
 しかしそんな瑣末なことにいちいち目くじらを立ててもしょうがないでしょう。大事なのはなぜ彼がぼっちになったか?ということです。そこも読み始めてすぐに説明されます。高校時代に仲の良かった五人組と、突然「おまえとは縁を切る」と言われたらしいのです。 それ以来、人間不信に陥り、他人とうまく関係を築けなくなったということがわかってきます。
 と、ここまで読んでいくと、「泣けてくるほどのぼっち小説ではないか!」と思ってしまいますね。
 
 しかし、すぐにその予想は鼻先でピシャっとやられます・・・。読む進めていくうちに、「あ、これはおいらとは違う」といつもの村上カラーが炸裂してきます。20ページぐらいで主人公は恵比寿のバーで女と喋っています。もうどこかで見た光景です。しかもそのバーに入った理由が「とりあえずチーズかナッツでもつまもうと思ったから」です。こんな軽い理由で恵比寿のバーに入れる人間をボクは同じ血が通っているとは思えません。しかも、会話もこんな感じです。

 つくる「それが存在し、存続すること自体がひとつの目的だった・・・」
    「たぶん・・・」
  女 「宇宙と同じように?」
 つくる「宇宙のことはよく知らない」
    「でもそのときの僕らには、それがすごく大事なことに思えたんだ。僕らのあいだに生じた特別なケミストリーを大事に譲っていくこと。風の中でマッチの火を消さないみたいに」
  女 「ケミストリー?」
 つくる「そこにたまたま生まれた場の力。二度と再現することのないもの」
  女 「ビッグバンみたいに?」
 つくる「ビックバンのこともよく知らない」

 
 「け、け、け、け、け、ケミストリー・・・・!」「い、いま、なんつったこいつ・・・!?」「け、け、ケミストリー!?!?」「ま、まじか・・・そんな尻こそばゆい単語・・・始めて聞いたんだけど・・・なにそれ・・・すっごいむずがゆいんだけど」「背中ぞわぁってするんだけど・・・すごい・・・変な汗出てきたよなんか・・・」「しかも、なんかケミストリーって言ったあとで、風の中でマッチの火をどうたらこうたらって、すごい恥ずかしい比喩表現上乗せしちゃってるよ・・・。恥の上塗りだろこれ・・・なんだよケミストリーってこええよ」「こんなやつバーで隣にいたらタコ殴りにしてるよ・・・」「しかもなんかあれだよ・・・女の子がせっかく『それは宇宙なのかなぁ?』とか『ビックバンみたいな感じ?』って必死で合いの手を差し伸べてくれてんのに全部『それは知らない』の一点張りだよ・・・。会話合わせる気ねぇよこいつ・・・どんだけ宇宙ネタ嫌いなんだよ・・・・。こんなやつ絶対モテねぇよ・・・。

 その後も頻繁に「ケミストリー」とつぶやくつくるくん。ケミストリー押しがすごいです。ところがモテてしまいます。なぜか、このつくるくん。二十歳で童貞だったわりには、女の子とはしっぽりしけこめてしまうのです。しかもその調子が、いつもの村上節です。心に大きな空洞をかかえたまま、他人に心を開いてないのにもかかわらず、ちゃっかり女は寄ってくる。いつものやつです。というか村上春樹の小説のキャラクターってこんなんばっかりじゃね? しかも童貞喪失のときに―――初めての体験だったが、それにしては何もかもがスムーズに運んだ。最初から最後まで戸惑うこともなく、気後れすることもなかった―――p132って、こんな都合のよろしい童貞っていらっしゃるかしら? 「村上さんの登場人物は避妊しないんですか?」というファンの質問に対して「うーん・・・いちいちゴムつけるとこ書くのめんどくさいでしょ」みたいな発言をしていたのを思い出しましたが、いくらめんどくさいからといって童貞をこんな女のあつかいに長けたサオ師みたいに描くのはやめていただきたい。あまりにもリアリティをシカトしすぎです。童貞を舐めないでいただきたい。「ヤリチンヤリチン」とずいぶん批判されてきたのに業を煮やしてか、やっとこちら側に擦り寄ってきたかと思いましたが・・・またこれです・・・やってることはやっぱりヤリチンです。

 いろんなところに目をつぶってみても開始何ページ目かでボクはあまりのオシャンティーぶりに卒倒しそうになりかけました・・・・。嫉妬とはーーー世界で最も絶望的な牢獄だったーーーとか、人の心は夜の鳥なのだーーとか、彼は荒ぶれた闇の中で消え入るように息を引き取り、森の小さく開けた場所に埋められた。人々がまだ深い眠りについている夜明け前の時刻に、こっそり密やかに。墓標もなくーーとかいちいち目を覆いたくなるような、ゴミ箱からほのかに漂ってくるようなスペルマ臭い言い回しとも必死で戦いました。

 ところが、多崎つくるくんひとりならまだしも、つくるくんの友人がこれまたひどい・・・とくにアカはひどい。女に「友達に嫌われた理由を探してみたら」と言われたので、十年ぶりにつくるくんは昔の友達のところへ尋ねるのですが、このアカってやつが、なんというか、もういろいろこじらせちゃってます。ビジネスセミナーのコミッショナーなんですけどね。もうなんかビジネスセミナーのコミッショナーだからなのかあれなのか、身のこなし、言葉の節々から、自己陶酔感がただよってるんですよ。もちろん応対するのは昔の友人(つくる)ですが、それにしても自分大好きオーラでまくってます。だってこれですぜ。

 アカ語録。

 アカは笑った。「嘘偽りはない。あのままだ。しかしもちろんいちばん大事な部分は書かれていない。それはここの中にしかない」、アカは自分のこめかみを指先でとんとんと叩いた。「シャフと同じだ。肝心なところはレシピには書かない」

 「あるいはそういうこともあるかもしれない」とアカは言った。それから愉快そうに笑って、指をぱちんと鳴らした。「するどいサーブだ。多崎つくるくんにアドヴァンテージ」

 アカは言った。「俺は思うんだが、事実というのは砂に埋もれた都市のようなものだ・・・」

 
 福山雅治なら許されます。ガリレオのときの雅治なら許されます。しかし、それ意外は、断じて許されません。無論。こういうことを言って、「おめーいてーよなんだよそれ。鋭いサーブだってなんだよw」「なにが多崎つくるくんにアドヴァンテージだよw」なんていう人間はひとりもおりません。自然なのです。「封を切ってしまった賞品の交換はできない」とか「まるで航海している船の甲板から、突然ひとりで夜の海に放り出されたみたいな気分だ」とか村上小説の登場人物は総じて、もういちいちなにかしゃべるときは、気の利いたこと、おしゃれな比喩を言わないとすまない性格だと肝に銘じたほうがよさそうです。

 しかしここまでこの書評を読んできて、話の内容がいまいち見えないという人も多いでしょう。ものすごくざっくばらんにネタバレしますと、多崎つくるくんが友達と再会を通して知った自分が絶好された理由とは「シロというおなじ五人グループの女の子をレイプしたから」というとんでもないものでした。つまりすごく雑に流れをまとめるとこうなります。
 オス!おいら多崎つくる!なんかよくわがんねーけど、すげえいきなり友達から絶好されちまった!――――→なんかそれがきっかけで自信もなくしたし、人間不信になっちまった!――→でも職場で知り合った女(沙羅)がすごいいい女で、結婚してーって思った!――→でもなんか女から「友達に再会してみたら」って言われたんで会ってみることにした!ーー→友達に何年かぶりに会って理由聞いたら、おれが勝手に友達(シロ)をレイプしたことになってた!――→なんかもっとよく聞いてみたら、シロ死んでて(好きだったのにショック)、しかもちょっとメンヘラだった!!!――→外国に住んでる友達に聞いたら、なんかメンヘラだったシロを救うためにやむなくついた嘘だってことがわかってきた!――→怒ろうかと思ったけど、すごい謝られたし、なんかすごい「ずっと好きだった」とか「自信を持ってー!」って言われたから「うん、おで頑張る!」ってなった!――――でも沙羅浮気してた・・・。沙羅に振られたらたぶんおいら死んじゃう・・・電話してみたけど・・・反応よわい・・・おいらを選んでくれんのかなー・・・うーん、やきもき・・・。―――→完!!!

 うーん・・・この物語になにを感じればいいのでしょうか・・・。読んでしばらく考えてみましたが、なにひとつ感想が浮かんできませんな・・・。作品にちりばめられたメッセージ「あの頃の思いがどこかに消えるわけじゃない」とか「自信を持ってー」「あなたはあなたのままでいいのよー」とかも、なんというか鼻息で一掃したくなるようなしろものだし。なにが面白いんだろうと思ってアマゾンで星5のレビューとか読んでみたら、けっこう「自信をもらいました!」っていう感想が多くありまして、意外に多崎つくるという主人公に感情移入している人が多いことに気づくのです。個性のない、なんのとりえもない、そんで自信がもてない、自己評価が異様に低い、こういう人は世のなかにたくさんいますし、この小説を読んで主人公に同化して「よっしゃ、なんか自信出てきたわ」ってなる人は、それはもちろん悪いとは言いませんが、そういう人はもともとかなり健康なお方なのではないのかと思いました。生きづらさを感じている若者へのエールって書いてる人もいたけど・・・いやーすれてないですなみなさん・・・。まさに生きづらさを感じている者の代表として言わせてもらいますとボクは読んでるあいだ、終始、「多崎つくると俺は違うからなー」と思っておりました。だってあれだぜ。ラストで恋人からの電話を待ってる時にオリーブグリーンのバスローズきてカティーサークのグラス傾けながらウィスキーの香りを味わってんだぜ? オリーブグリーンってクソ緑だぜ? 趣味悪くね? そんで「孤独だ・・・・」とかつぶやいてんだぜ? 石田純一なの? 孤独ってこんなオシャレだっけ? こんなやつに感情移入なんかできませんわな・・・。しかもこの小説の着地点も、シロというミューズを失った主人公が沙羅という新しいミューズと出会うという、「けっきょく恋愛だよねー」としか言い様がないイラッとくる結論だし。なぜイラッとくるかといえば、「それができない人はどうするの?」と読んでいて頭に疑問符が湧いたからであります。これを救済とか、救いととるなら、こんな残酷な救いはありませんな。沙羅という見ただけでズキューンとなる女に物にしないと自信を取り戻せないなんて・・・。そんな女に出会えないのが大多数の人生なのに・・・。なんでこれをよしとしているんだろうって思ってアマゾンのレビュー読んでたら、ひとりぼっちな男が救済されて元気出すにはやはり沙羅のようないたれりつくせりな女性に手伝ってもらわないと、、というかこんな女性に救済されたいなぁ、、とくたびれ果てた男どもが勝手に妄想するのが沙羅なんです。って書いてあって、あぁなるほどと納得いたしました。これはつまり、孤独なサラリーマンの妄想小説なのですな・・・。いやー・・・そんなイカ臭い妄想には付き合っていられません・・・。

ところで西麻布あたりのオシャレなキャンドルバーで、マティーニなんか飲みながら村上作品を読んでいる奴とか、まだ居るんでしょうか?もう死滅していると思うのですが、居たらブームかマストを借りてアタマどついてやりたいと思います。(笑)

検見川ヒロ


そして、誰も押さなくなった・・・・・・・
にほんブログ村 マリンスポーツブログへ
にほんブログ村